ミステリを読む 専門書を語るブログ

「ほしいつ」です。専門書ときどき一般書の編集者で年間4~6冊出版しています。しかしここは海外ミステリが中心のブログです。

『途中の家』(エラリー・クイーン)について

 昨日,紹介した『推理作家の出来るまで(下巻)』と『奇妙な情熱にかられて』において,偶然『途中の家』(どうしても『中途の家』と間違えてしまう)が取り上げられていた。『推理作家…』は謎解きミステリとしての評価をしており,『奇妙な情熱…』では題材のよさを評価している。両者とも,全面的に評価していないところが共通している。

 ここから『途中の家』の内容について触れていますので,未読の人は読まないほうがよいでしょう(以下はメモです)。

 『推理作家の出来るまで』では,長編ミステリの描き方を考え直すために,ヴァン・ダインディクスン・カーなど読んだ後,「論理的興味という点では,エラリイ・クイーンに一歩をゆずる」として,『途中の家』について以下のように言及している。

 いかにも,三十年代の都会ミステリらしく,登場人物の配置ができていて,謎の不思議さも,申しぶんがない。
 しかし,こんどは大きな不満があった。この作品を読みかえすのは,二十年ぶりぐらいだろう。
 その二十年のあいだに,推理小説は進歩したのだ。
   *
 ひとことでいえば,「途中の家」のおわったところから,現代のミステリは,はじまるのである。
 (中略)
 探偵クイーンが,推理を展開して,犯人がわかっても,被害者がなぜ,二重生活をつづけたかは,わからない。
「そういうことは,当人に聞いてみないと,わからないでしょう。当人は死んでいるのだから聞くわけにもいかないし……」
 といった調子で,探偵クイーンも,作者クイーンも,すましている。現代のミステリなら,そこからはじまる,といったのは,言葉のあやだけれども,とちゅうに織りこまなければ,いけないことだろう。
 (中略)
 現代の推理小説には,制約もなければ,限界もない。名探偵が堂堂の推理を展開して,犯人を指摘する。その人物は逃げて,車に轢かれてしまう。事件は落着して数日後,名探偵は,自分の論理の矛盾に気づく。真犯人は不明のまま,小説はおわる。そんな作品を書いたって,そこでおわる必然性さえあれば,かまわないのである。(518〜520ページより)

 『奇妙な情熱…』では,以下のように言及されている。

 その小説とは,本格推理小説の巨匠エラリー・クイーンが一九三六年に発表した長編『途中の家』(原題はHALFWAY HOUSE)である。率直にいって,この作品はあまり出来がよろしくない(作者のクイーン自身は,かなり気に入っていたらしいが)。ちゃんと「読者への挑戦」も添えられた正統派パズルストーリーではあるのだけど,この原稿のために再読してみたら,実に退屈なのである。結末にしてもあっと驚くといったものではなかったし,推理小説マニアに記憶されるに相応しい大トリックがあるわけでもない。小説としての底の浅さや古めかしさだけが目についてしまう。
 にもかかわらず,設定だけはなかなかユニークで魅力的なのである。(96ページより)
 (中略)
 ただし本書はそっけないパズル・ストーリーに終始して,なぜ被害者が二重生活を送ったのかとか,どんな気持で重婚をしていたのかとか,そういった心の闇への感心を一切排除している。そんなものクイーンに求めることなど所詮「無い物ねだり」ということは分かっているが,やはり物足りない気持にさせられてしまうのである。(98ページより)

 両者とも,同じ欠点を指摘している。都筑氏の指摘が,おそらく1988年ぐらい。春日氏の指摘が,2005年。現代でも,それは果たして,妥当なのだろうか,と私は考える。今度,『途中の家』をもう一度読んでみよう。