本書は、タイトルから『地獄の読書録』と同様に、小林信彦氏の小説に関するエッセイ集と誤解をしそうですが、そうではなく「小説とはどうあるべきか」「面白い小説となどういうものか」を示した小説評論であり、あるいは小説宣言といってもよいでしょう。小説とは物語である、と言い切っています。
私は大学生の頃、ハードカバーで出版されたときに、バイト先で夢中になって一編一編を読み進んでいたのを思い出します。今回、文庫で再読したのは、キャラクター論について本書に書かれていたのが心のどこかで引っかかり、確認したかったからです。
それは、『吾輩は猫である』について評されたものの一つで、タイトルは〈「吾輩は猫である」とフラット・キャラクター〉。なぜ『猫』の笑いの対象が二つあるにもかかわらず、そうではないと誤解されてしまったのか。その理由として、登場人物が「フラット・キャラクター(平面的な人物)」であるからだとしています。そのキャラクター論は、E・M・フォースターの説であると紹介し、フラット・キャラクターに対するものとして、ラウンド・キャラクター(立体的な人物)に分けられる、としています。
あらためて本書の内容はと言いますと、戦前・戦中・戦後の少年小説、『吾輩は猫である』、探偵小説と推理小説、太宰治、フィールディング、『ラブイユーズ』『富士に立つ影』『火星人ゴーホーム』、ヴォネガット、ブローディガン、アーヴィング、『瘋癲老人日記』などについて語っています。
ミステリ的に言いますと、本書の発行が1989年というのはポイントで、新本格派がきちんと認知される前であり――もっとも小林氏は都筑氏と異なり謎解きに興味はなく、センス・オブ・ワンダーに魅せられたと言っているので、新本格派に興味があったのか不明ですが――、それまでのミステリの流れがきちんと押さえてあります。
それにしても、本書を読んで、社会派推理小説がものすごいブームを起こし、日本ミステリ=社会派推理小説しか発行されていない状態であったことを思い出しました。私の実感ですが、社会派という言葉が駆逐されたのは、冒険小説ブームが起こり、新本格派という言葉が普通に用いられるようになったからですね。
本書は、以下の引用部分のように、読者が普遍的に面白がるのは、物語であり、作者が伝えたい切実な思いであり、そしてそのためには作者は自由に何をしてもよい、というか、それに成功すれば反則をおかしてもよい、という主張が貫かれています。
(中略)「トリストラム・シャンディ」と「トム・ジョウンズ」は〈笑いの文学の二極〉みたいに、十八世紀英国小説の枠の中でいわれているのだが、共通しているのは、〈小説はどう書いてもいい〉という一事だ。「猫」根底にあるのは、ひとくちでいえば、そういう発想、極端な自由さである。(67頁より)
〈物語〉というのは、ミュージカル映画やポップスと同様に、ある種の感覚なのである。ノリと言ってもよい。その感覚さえあれば、解釈とか分類は、もう、どうでもよくなる。作者の思うがままに引きずりまわされ、どうして、こうなるの、教えて! と叫び、もし〈大団円〉の辺りのページが抜け落ちていたら、タクシーを飛ばして、夜中にあいている本屋を探しまわる――そういうものではあるまいか。(175頁より)
フィクションとは、作家にとってどうしても語らなくはいられないことを魅力的に語る方法と考えていただきたい。(431頁より)
小林氏は、本書の中で小説を古いメディアである、音が使うことができればなあ、としばしば嘆いています。そして小説の状況は、本書に小林氏が記したとおり、ほとんど変わっていません。歴史は繰り返すのとおり、本書の内容をなぞっているのかもしれないと感じるほどです。本書に、インターネットの情報を加えれば、そのまま改訂版としても通用します。改めて読んでみても名著でした。
といいつつ、本書で紹介されたなかで唯一『パルムの僧院』を読んだのですが、どこが面白いのかさっぱりでした……。
- 作者: 小林信彦
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1992/08
- メディア: 文庫
- 購入: 1人 クリック: 4回
- この商品を含むブログ (11件) を見る