ミステリを読む 専門書を語るブログ

「ほしいつ」です。専門書ときどき一般書の編集者で年間4~6冊出版しています。しかしここは海外ミステリが中心のブログです。

『最悪のとき』ウィリアム・P・マッギヴァーン,井上勇訳,創元推理文庫,1955,1960

 ウィリアム P.マッギヴァーンは第二次世界大戦後に活躍したミステリ作家で,主に悪徳警官ものが多いとされています。

 日本の翻訳ミステリは,戦後から本格的になりますが,最初は戦前から引き続き,クリスティ,クイーンなどの謎解きものから紹介されていきますが,たとえば『幻の女』のように謎解きでないため紹介されなかった,サスペンス,スリラー作家がどさっと翻訳されるようになります。

 アメリカのテレビドラマや映画と同じ種類のものなのでしょう。謎解きはマニアが好きなだけで一般人はむしろサスペンス,スリラー,警官もの,スパイものが受けるわけですから,こちらが翻訳物の主流になったように感じます。

 マイク・ハマーイアン・フレミングがベストセラーになったわけです。それにより,類似する作家群がたくさん紹介されたようです。

 マッギヴァーンはその時代に,同時代の警官もののミステリ作家として紹介された一人です。私は初めて読む作家で,もっと牧歌的なイメージをもっていたのですが,本書を読んで,あまりにも本格的な大時代的なハードボイルドの文体,悪徳警官の描写,ギャングとの抗争が書かれていて驚きました。

 その日は,第31番街署の刑事たちにとって,元同僚の刑事のスチーヴ・レトニックがやっていない殺人で逮捕されてから5年たち刑務所から出所する日だった。レトニックは警官の罠にかけられたのだった。出所したレトニックはジョー・ヴェントラ殺しの真犯人を捜すべく手がかりを求めた。ヴェントラは当時ギャング団の縄張り争いのまっただ中にいたギャングの手下だった。執念をもって真相を暴こうとするのだが……。

 とにかく,行動と会話の描写だけで物語の説明をしないため,映画のようであり,なかなかストーリーをつかませんでした。また翻訳もたとえば「君は,僕がヴェントラを殺したと信じているのか」(39頁より)というような高貴なる人物群のようは口調のため,それを頭の中で翻訳しながら読んでいたのでストーリーをつかむのに少々疲れました。というわけで,☆☆☆というところです。

最悪のとき (創元推理文庫 M マ 2-7)

最悪のとき (創元推理文庫 M マ 2-7)

 

 

『奇界遺産』佐藤健寿,エクスナレッジ,2010/『奇界遺産2』佐藤健寿,エクスナレッジ,2014

 著者はTBSテレビの番組の「クレージージャーニー」でゲストの一人です。この番組は毎回見ていて,このゲストの本って読みたくなりますよね。丸山ゴンザレス氏でも,他の冒険者でも。何でですかね。番組を見ていると,一部しか見せてくれない,もっと見たいのに,という気分にさせてくれるからですかね。しかし,本書も同じ感じがして,これだけではない,もうちょっと詳しくみたいな,という気分にさせてくれます。それは,また民俗学文化人類学,はたまた心理学などの領域なんでしょうね。 

奇界遺産

奇界遺産

 

  調べてみたら,ネット上では非常に評価されているHPで,いわゆるネット本の1つでした。第2弾が出版されたところをみると,第1弾でペイできるぐらいは売れたのでしょうか。編集者としては,ネット発の書籍でも成功した企画の1つとしても興味深いです。ネット発の書籍は販売が難しいんですよねえ……。 

奇界遺産2

奇界遺産2

 

 

『アオイホノオ 15』島本和彦,少年サンデーコミックススペシャル,2016

 うーん,面白い。新谷かおる先生の編集者の詰め方は,比較的後期の作品の編集者から,週のほとんどを編集部で詰めていたと聞いたことがあります。この連載は『ファントム無頼』か『ふたり鷹』の初期だと思うんですが,その頃から,こんなに苦労していたんですねえ。

 あと島本氏が作っていたカレンダーで手塚治虫のものにあこがれたとありましたが,そのカレンダーは西崎氏が虫プロ時代に作ったものなのでしょうか? 

 

『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男―西崎義展の狂気』牧村康正,山田哲久,講談社,2015

 昨年,評判が高かった『ヤマト』のプロデューサーの西崎義展の生涯を述べられたノンフィクション。

 いやー,久しぶりですね,いわゆる「怪物」の伝記ですね。「怪物」とは正確に何といったらよいかわからないのですが,大いなることを行うためには,犯罪を含めて清濁を併せ呑むことことができる人物というイメージです。膨大なエネルギーがあり,魅力的な側面があるため,それから逃れるのが難しい人っていますよね。そんな感じがわかります。

 西崎義範の戦略は、最終的に物づくりのためのアイデアを自分のものにしてしまうことです。そのために資金を出すことをためらいません。それはギャンブルですので、最終的には、そのために身を滅ぼすことになります。また本来受け取るべき利益を受けるべき人が受けなくなってしまうことがあります。それが、いいことなのか、悪いことなのか……。 

「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気

「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気

 

  本書の本筋とはずれますが、著作権は誰がもつべきなのか。アイデアを出した人なのか、それを実行した人なのか、またアレンジした人にはないのか、資金を出した人なのか。人は誰しもがクリエイターになりたいという欲望があります。クリエイトするためには、そのその能力をもっていなくてはなりませんし、ほとんどの人がもっていません。しかし、能力がなくても、金で得るor盗むことができるのです。たとえば出版社が著作権を主張しています。

 また、できあがってきた作品を独りでコントロールしているものはありません。複数の人間が関わっています。また、複数の人間が協力することによって、独りの天才よりも優れた作品ができることがあるのです。ほとんどの作品がそうです。このようなときの著作権はどうあるべきなのか。すべてが一人の者にある、あるいは会社にあるというのは無理があるのではないかと思います。だからといって、盗んでよいわけではありませんが。なんか、まとまりのない文章になってしまいました。

「特集=出版社を作ろう!」『本の雑誌394号』2016/03/『一度は読んでほしい 小さな出版社のおもしろい本』 (男の隠れ家教養シリーズ),三栄書房,2014

 『本の雑誌』の 「出版社を作ろう!」という特集には,とても心惹かれましたねえ。僕は昔,社員3名の小さな出版社に勤めていて,また,ぼんやりですが会社を辞めることを考えているので。しかし,出版社を作ることまでは考えていなかったですけど。

 数年前に今の出版社で一緒に仕事をしていた先輩が,小さい出版社を設立したことも後押ししています。それは出版社退社後,フリー編集者として働いて,出版企画が来たために出版社を立ち上げています。引き続き,パンフや小冊子などの編集も受けているので,やっていけているんでしょうかね。経営のことがわからないのですが。

 そこで,この特集のアルテスパブリッシングの創業者の「出版社作りにまつわるお金の話」や3社の会社の方々の座談会の「出版の作り方座談会 いかに売るかが大変だ」は,すごいことしているなあ,と感心します。やっぱり出版社を作ったり,フリーになったりするには,当座の確実な収入がなくては,すぐにつぶれてしまんでしょうね。たとえば,定期的な雑誌や小冊子がなくてはなりません。あとは自費出版を請け負うことか。うーん,僕には無理だなあ。 

本の雑誌394号

本の雑誌394号

 

  それで昔書店で購入した『小さな出版社のおもしろい本』を購入していたことを思い出しました。たくさんの出版社を紹介していて,内容云々より,取材したり写真を集めたり編集作業が大変だったろうなあ,というのは読後第一の感想。また,これだけ本を出版したい人がいるというのが凄いというのが第二の感想。出版の役割って何なんでしょうね? 情報のやりとりでもあるし,記録でもあるわけですが,無理矢理こさえているという気もします。

 ネットで残るのだから出版は必要ないと思っていましたが,ネットって,かなり情報統制されていて,恣意的に残さないということができるわけで,そうすると,出版というか書籍の意義もあるわけです。しかし,役割や意味を考えるのも不毛ですね。

  

『少年の名はジルベール』竹宮惠子,小学館,2016

 竹宮惠子氏の東京上京から『風と木の詩』の連載まで綴ったエッセイ集。

 最初は書き下ろしかと思っていたけれど、奥付前のクレジットをみると語り下ろしらしいですね。オーケンの『サブカルで食う』も語り下ろしでしたが、このように自らの手札を披露するエッセイ集は、自意識が邪魔をして書けないのでしょうか。それとも時間がなくて書く気がないのに、語り下ろしでもよいからというオファーを受けただけなのでしょうか。まあ、このような無理やりな形でもよいから、作家の創作論が現れるというのは意義があることです。私も編集者として見習わなければなりません。

 私は、角川書店から発行された全集をあつめたくらいの、竹宮惠子氏のファンで、今まで断片的に語られたに過ぎない、この時期のことを系統的に語ってもらって、非常に面白かったです。大泉サロンはどのように生まれ終わったのか、竹宮氏にとって増山氏はどのような役割を果たしていたのか、一時期キャラクターが似ていた萩尾氏との関係はどのようなものだったか、ヨーロッパ旅行は何故どのようにして実行されたのか、わかります。いままでの断片的な情報と少し異なることもあったような気がしますが、時を経て認識が変化したのでしょう。

 とくに貴重だったのは、『ファラオの墓』の成り立ちです。ある日『風と木の詩』のアイデアが出てきてから、旧態依然の少女マンガ編集部に自分の表現したボーイズラブ的な作品を掲載してもらうために奮闘したり、各編集者に『風と木の詩』を売り込んだりしているのですが、「その前に『ファラオの墓』があるはずだろう、いつになったら『ファラオの墓』のことになるのか」とイライラしていました。私は『ファラオの墓』を(退屈なところもあるけれど)悲劇的なフィクションとして非常に高く評価していて、なぜ代表作として語られることがないのか不思議に思っていたのです。

 それがきちんと竹宮氏の作家歴の大きな一部として語られていることに安堵したくらいですよ。そして、何故、突然変異的に『ファラオの墓』のような「物語」が誕生したのか、そして何故退屈なところもあるのか、わかりました。まさか、初めて「物語」を意識的に作った作品であるとは思いも寄りませんでしたが。

少年の名はジルベール

少年の名はジルベール

 

 

『ひきがえるの夜』マイクル・コリンズ,木村二郎訳,ハヤカワ・ポケット・ミステリ1368,1970,1981――テーマは現代にも通じる

 隻腕の私立探偵のダン・フォーチューン・シリーズの第3作目の作品。隻腕の設定は意味がないと思えるほど、本格的ハードボイルド小説です。

 リカルド・ヴェガは大物俳優で演出家でプロモーターでもあった。ヴェガの舞台で女優のマーティーは役を得たがヴェガは寝るように仕向けてきた。マーティーは友人で私立探偵のフォーチューンにヴェガにそれには応じないと脅すよう依頼した。ヴェガのオフィスに行ったフォーチューンはヴェガのマネージャーと用心棒に追い出された。そのとき、同じようにヴェガに追い出された、豊満な体が印象的な女がいた。

 その二週間後、その女アン・テリーが失踪したというニュースが新聞に掲載されていた。アンのことが気になっていたフォーチューンは、アンの姉であるサラにアン探しの手伝いをしたいと申し出た。サラは金曜日から日曜日にかけてアンが自分の部屋に戻っていないので、警察に通報したという。フォーチューンはアンの部屋に行き家捜しをしていると、ヴェガの用心棒のショーン・マクブライドが家捜しに来て、警察に不法侵入で連行された。

 フォーチューンはアンのパートナーのシオドア・マーシャルを訪ねた。マーシャルはアンと出会うまでサラと付き合っていた、アンは同じ役者仲間であること、そしてサラはアンのことを心配していないと思い、サラが探偵を傭っていたことに驚いたと言った。そして、アンの失踪に自分は関係がないと主張し興味がなさそうだった。その時、劇団管理人のフランク・マデロが訪れた。どうも両刀遣いらしい。

 フォーチューンは酒場で女友だちのマーティ-と飲みながら、アンのことを考えた。十四歳で農夫と結婚、劇場の夢を見て、ニューヨークに来て、何も持たない娘が生き延びる方法を学ぶ。ハスラー(娼婦)として、一方で夢を実現するための女優として働いていた。フォーチューンはアンの収支の控え、アパートをもう一つ借りていることから、もうひとり誰かいるのではと考える。マーティーは夫ではないかと示唆すると、フォーチューンはサラに電話した

 フォーチューンはアンのアパートに侵入し、買い物伝票の送り先住所から、もう一つのアパートの住所を知って、そこへ向かった。そのアパートには、二人の姉妹がいて、父親は不在、母親はベッドで寝ているという。その母親はアンで、2日間寝たままだという。アンは死んでいたのだ。

 ニューヨーク市警の警部のガッゾーによると、アンが死んだ理由は、中絶の手術を受け、処方を受けた鎮痛剤を飲み過ぎたことだった。そのガッゾーのところへリカルド・ヴェガが訪れ、フォーチューンがガッゾーを陥れるためにアンの失踪を企んだと訴えた。が、そこでアンの死とその事情を聞かされたヴェガは、深く息を吸い込み両手を目に当てて、アンのことが好きで付き合っていたこと、子どもの父親かもしれないこと、仕事のパートナーとしたかったができなかったこと、そしてアンがヴェガを子どものことで金をゆするつもりであったことを告白した。

 アン・テリーだけが二重生活を送っているのではない。声、口調、言葉遣いがまるで違っている。二人の男、すなわち口八丁の女たらしと、真剣な芸術家。今しゃべっているのは芸術家のほうだ。知られている顔もそっちなのだろう。(69頁より)

 フォーチューンはシオドア(テッド)・マーシャルを探すと、同じアパートの地階に住んでいる劇団管理人のフランク・マデロの部屋で寝ていた。テッドに詰問したがテッドは何も知らないと答えた。 

 ちょっと主人公のフォーチューンのモノローグが場違いなシーンもありましたが、解決篇のたたみかけ方、意外性のある展開と苦い結末は素晴らしく、☆☆☆★というところです。もう少しキャラクターの出し入れや、文章にロス・マクのようなわかりやすさがあれば、ストーリーそのものは社会性もあり、現代でも読める作品として傑作になっていたはずです。

 ――そしてその文章は、翻訳者のせいではないでしょうか? あまりにも原文にある文字だけを翻訳している感じがします。そのため英語独特の約束事を翻訳していない。他の人が翻訳をしていれば、もっと評価が高いはずです。

 これを最近低迷している『相棒』の原作にしてみてはどうですかねえ。きっと傑作になると思いますよ。